アキレス腱断裂2023.1.25
南海、ダイエー、オリックスでプロ野球歴代3位となる通算567本塁打を放った門田博光(かどた・ひろみつ)氏
有名なのはブーマーとハイタッチして肩の脱臼とアキレス腱断裂後に復帰してからの本塁打王になったことですね。
アキレス腱断裂後の方を診ることありますが、術後の瘢痕化(かさぶたのように硬くなる)していて大変です。
パフォーマンスは落ちることが直ぐにイメージできるくらいです。
アスリートでなくても日常生活に支障が出たりしているレベルの怪我からの復帰はすごいですよね。
怪我した当時のことが記事にありました。
キャンプの最初に、45分間のウオーミングアップというのがあってね。
体も温まってきた、ちょうど残り10分ぐらいのこと。
地面を蹴り上げてジャンプした瞬間、『バキッ』という音がした。
たまたま、新しいケンの長いスパイクを履いた時でね。
それが直接の原因ではないと思うんだけど…。
あぁ、死んだな、終わりだな、という思いが頭を過ぎった。
絶望のどん底で、門田はその後の人生を変える、野球の常識とはかけ離れた言葉と出会う。
ホームランを打てば走らなくていい
すごい言葉ですね。
言葉はタイミングが合えば響きます。
誰に何を言われるか、その時の受け手のタイミングで良くも悪くもなるのも言葉ですね。
まとめてあったので・・・
◆アキレス腱(けん)断裂 79年2月のキャンプ中に右アキレス腱を断裂。選手生命の危機に立たされる。「走らなくてもいいように」と本塁打狙いに徹することを誓う。
◆復活 背番号を44に変え、80年の開幕戦では広瀬叔功監督に「1試合4打席下さい」と直訴。いきなり本塁打を放った。同年41本塁打と見事に復活し、カムバック賞に輝く。
◆月間16本塁打 81年7月には、当時のプロ野球記録の月間16本塁打を記録。球宴休みがあるため他の月より試合数が少ない中で同月31日、西武戦での満塁本塁打で決めた。
初キング 同年44本塁打で初の本塁打王に輝く。アキレス腱断裂から完全復活を果たした。
◆背番号「60」で2度目の本塁打王 83年に「年間60本塁打を放つ」との意気込みで、主力選手では異色の背番号60をつける。40本塁打で2度目のキングを獲得。
◆不惑の大砲 40歳で迎えた88年には、44本塁打、125打点で2冠を獲得。チームは5位ながら、現在もプロ野球最年長のMVPとなる。
◆オリックス移籍 同年オフに南海がダイエーに球団を譲渡し福岡へ移転したが、関西残留を希望。阪急を買収したオリックスへトレードで移籍した。
◆ブルーサンダー打線 移籍1年目の89年はブーマー、石嶺、藤井らと強力打線を形成。序盤戦は首位を独走する。
◆脱臼V逸 同年9月25日ダイエー戦で本塁打し、ベンチ前でブーマーとハイタッチした際に右肩を脱臼。これを境にチームも失速し、近鉄に優勝を譲る遠因となった。
◆野茂にプロの洗礼 近鉄の黄金ルーキー野茂に、プロ初の本塁打を浴びせようと決意。ビデオで徹底研究し、癖を発見。90年4月18日の2回に、初球を右翼席に運んだ。
逆転満塁サヨナラ弾 90年9月9日西武戦で、鹿取から逆転満塁サヨナラ本塁打。上田利治監督に通算1000勝を贈った。翌10日西武戦で、2試合連続サヨナラ本塁打。
◆ホークス復帰 オリックスに同年限りでの退団を申し出て、自由契約に。福岡へ転居し、ダイエーへ移籍した。3年ぶりの古巣復帰。
◆44歳で引退 92年シーズン限りでの引退を決意した。最後の試合となった10月1日近鉄戦で、最後の投手は因縁の野茂。最終打席は、豪快な空振り三振だった。会見では「何もかもやり尽くし、トライし尽くしてすべて終わりました」と笑顔だった。
リハビリの頑張りを試合での結果で示したのが印象的です。
野球を見ていてホームランは魅力のひとつですね。
詳しい人も詳しくない人も「わーすごい」と、目線を集めるのがホームランです。
ホームランを打ちたいわけではなく、日常生活で困りたくないんや、という相談も受け付けています。
泰然ではアキレス腱断裂手術後のケアに鍼灸を組み合わせた方法を用います。
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